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 我が家の先祖である表米親王と継体天皇との関係を調査しました。
 その結果、開化天皇第三皇子である日子坐王と、神功皇后の先祖である息長宿禰王とを介して、両者に繋がりがあることが判明しました。
 そして、家系図上の問題点についても解明を試みました。


1.継体天皇と表米親王との関係とは

 住まいのすぐ近くにある産土神社は「赤渕神社」で、この神社には「赤渕大明神」、「表米大明神」、「大海龍王神」が祀られています。また、「表米大明神」は「表米宿禰(または表米親王)」と称され、神社拝殿に掛けられている説明板には、「継体天皇二十一年表米宿禰異賊征討・・・・・(注1)」とあります。

 そして、神社の記録によると、その際は朝廷、つまり継体天皇より大将に任じられているのですが、なぜ但馬地方の一人物にそのような命令があったのかと疑問に思い、歴史研究を始めました。

 その結果、表米親王は我が家の先祖(我が家は元々は牧田氏を名乗っていました。)に当たり、その表米親王は、四道将軍の中の山陰道将軍として第10代崇神天皇の命により、この但馬地方(注2)へ派遣された日子坐王の子孫であることが分かりました。

 日子坐王の墳墓は朝来市山東町粟鹿にあって、但馬南部に位置する粟鹿山の麓の粟鹿大社本殿後部に当たり、日子坐王は、第9代開化天皇の第三王子であったことが粟鹿大社境内の石碑にあります。
 日子坐王の子孫は現在の日下家ですので、日下家が本家となります。
 そして、表米親王は久世田の加納が丘に居を構えていた模様で、惜しくも事故のため47歳で亡くなり、親王の墳墓は、朝来市和田山町久世田に勘納塚として残されています。
 また、表米神社は久世田と和田山町殿町にあります。

(注1)・・・・・は文字が消滅か、と思われます。
(注2)当時は、もしかすると田庭と記し、たにわ→たには→たんば→丹波となり、この丹波が後に、丹後・丹波・但馬に分けられたのではないかと推測しています。
 現在でも、丹後・丹波・但馬は「さんたん」と称されています。


2.日子坐王を介した両者の繋がり

 この日子坐王と和邇臣袁祁都比売との間の子孫に息長宿禰王がありますが、この息長宿禰の子孫である息長帯比売は第14代仲哀天皇の后となり後に神功皇后と称されたことも分かりました。また、神功皇后が自ら三韓(高句麗、百済、新羅)へ出兵された後、九州に帰陣されたときに生まれた王子が、後の第15代応神天皇です。この神功皇后と応神天皇が、全国の八幡神社の祭神として祀られていることは、皆様ご存知の通りです。

 継体天皇は即位前は男大迹王であり、近江の生まれで越前に住んでいた。506年に第25代武烈天皇が崩御されたが跡継ぎがなく、大伴金村は応神天皇5世孫である男大迹王を跡継ぎに迎えようとした。
 継体天皇は西暦507年即位ですが、527年に朝鮮が倭に敵対したために、朝廷は物部アラカイを総大将として朝鮮を5万の兵で討とうとして船で出陣した時、九州の豪族である磐井が朝鮮から賄賂を受けて朝廷に反旗を翻し、朝廷軍を下関で迎え撃とうとした「磐井の乱」が起きています。
 従って、表米宿禰の異賊征討というのは、この磐井の乱のことであったと考えられますが、この但馬地方の人物に命が下った理由がここでお分かり頂けることと思います。
 つまり、表米親王が継体天皇の親族に当たるからだ、ということです。

 この時、表米親王は若干19歳にして大将を仰せつかったらしい。また、戦においては、敵軍によって乗っている船に大穴をあけられてしまったが、海の底から無数のアワビが浮上してきてその穴を塞いでくれ、そのお陰で船は沈まずに助かった、と神社の記録に残されています。
 このために、表米親王は正一位を賜りましたが、更に表米大明神として祀られていて、大海龍王神も共に祀られているのでしょう。


3.家系図上の問題点とその解明の試み

 伝えられている系図によれば、我が家の先祖は表米親王から始まっているのですが、その表米親王のついては、第36代天皇の「孝徳天皇三品王子」と記されています。孝徳天皇には第三王子はないので、この記述の理由を考えてみました。

 そうしたところ、日子坐王の記録が京都府大江町の元伊勢神社にあり、その記録の内容は失念しましたが、年代は西暦の紀元前50年頃のことでした。
 孝徳天皇の即位は645年(大化の改新)のことですので、いざ牧田氏として系図を作成しようとした時に、本家に確認すれば良かったのかもしれませんが、本家である日下家とは一山離れているために普段の交流は無かったでしょうし、700年も以前の本家ですので、まさか日下家を訪ねて「系図を見せて欲しい」とは言えなかったのではないでしょうか。
 このことから、伝えられている系図上、出発の天皇の名前に問題があることに関しては、次の様に推測しております。

 即ち、別に誤魔化そうと意図したわけではなく、已むを得ず系図を作成した時の天皇である孝徳天皇の名前を借りて、その代わりに、第三王子であったことを伝えようとしたのではないか、と考えております。


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